■ 機関誌『測量』2004年5月号
特集「美しい国づくりと観光」座談会
この座談会は2004年2月23日に2時間にわたり行われました。機関誌「測量」2004年5月号には,紙面の都合上,話題の一部を抜粋して掲載しましたが,この「会員の広場」では,話題の全てをお届けします。
「川越のまちづくりから,測量の進むべき道を探る」
川越は,「美しいまちづくりと観光」を他に先駆けて成功に導き,各地の観光再生プロジェクトの模範になっている。魅力ある川越のまちづくりはどのような動機で出発し,どのようにして成功したのか,その秘訣を探る。観光再生における測量業の役割は何か? 苦境から脱出した川越の生き方を通して,今,苦境の中にいる測量業が生き抜き,発展するための道筋は何か?
【座談会メンバー】 (敬称略)
舟橋 功一 |
川越市長 (川越市観光協会 会長) |
馬場 弘 |
川越商工会議所 副会頭 (川越蔵の会 前会長) |
近津 博文 |
東京電機大学 理工学部建設環境工学科 教授
(月刊『測量』前編集委員長) |
藤井 美登利 |
町雑誌『小江戸ものがたり』 編集長
(川越むかし工房 主宰) |
西澤 堅 |
測量設計業 (株)写測 代表取締役社長(川越市在住) |

図−1 座談会が行われた喜多院の家光誕生の間
喜多院
川越大師喜多院は,平安時代(830年)慈覚大師円仁の創建とされ,江戸時代(1599年)第27世を継いだ天海僧正(慈眼大師)は徳川家康と親しく接見し,寺勢をふるった。寛永15(1638)年1月の川越大火後に,第三代将軍徳川家光の命により,江戸城別殿の家光誕生の間や春日局化粧の間が移築された。今年は,「家光生誕400年」にあたり,市では色々なイベントを企画している。また,境内には,天明2(1782)年から50年の歳月をかけて作られた人間味あふれる五百羅漢がある。 (参考:http://www.kawagoe.com/kitain/) |
1. 川越のまちづくり,その成功の秘訣は?
西澤(司会): 私は川越に住んでいるのですが,そのことを他の人に話すと,「川越に住んでいるのですって・・・・。いいですね」とよく言われます。私も,「川越ほど良いところはありません」と言っています。
私は航空写真測量の会社を経営しているのですが,数年前に川越ロータリークラブに入れていただいたので,これから益々,「住んでよし訪れてよし」の川越の役に立ちたいと考えています。当面の私の川越における役割は,2つほどあります。一つ目は,マンション建設計画の浮上で消滅の危機にあった旧川越織物市場(図−2)の歴史的建造物を市で取得していただいたので,これを拠点にしたまちづくりに協力することです。

図−2 旧川越織物市場
旧川越織物市場
産地間競争が激しくなり,織物製品がこれまでは商業中心地であった川越を通過するようになった対策として,明治43(1910)年に,織物製品を集結させる市場を川越商人たちの総力を挙げて建築した。大正8(1919)年まで市場として使用されたが,その後,平成13(2001)年12月まで住居などとして使用された。かつては関東各地に織物市場があったが,この建物だけがほぼ完全な形で残された。建物は2棟からなる長屋形式の木造建築で,江戸時代の町屋の様式を残している。平成14(2002)年11月,高層マンション建築のため建物が解体されようとしたが,地元住民の運動により川越市が敷地を買い取り,現在地での保存が確定した。
(参考:http://www.kawaichi.com/contents/contents.html) |
二つ目は,江戸文化を伝える川越まつり(図−3)には,私の住んでいる町内の「浦島の山車」(県指定文化財)も出るのですが,老朽化が目立つため皆で資金を出し合って修復することです。行政の力を借りながらわれわれが動くことによって,観光と文化と環境の良い,伝統を守る川越まちづくりを進めていきたいと思います。
図−3 川越まつり
川越まつり
豪華絢爛な山車と粋なお囃子で知られる。祭礼の起源は慶安元(1648)年,城主松平信綱が神輿を寄進したことに始まる。各町内で山車や屋台を出すようになり,江戸との経済交流により「大江戸の天下祭り」といわれた赤坂山王や神田明神の様式を移した華麗な山車が曳き回され,「関東三大祭り」の一つに数えられる。平成16(2004)年は10月16,17日に催され,山車同士がすれ違う際に囃子の競演をするのが見所である。
(参考:http://www.city.kawagoe.saitama.jp/kanko/kawa27.htm) |
川越には多くの魅力スポットがあり,その観光客数が自慢なのですが,まず,舟橋市長さんから川越の観光の自慢話をお願いします。
(1) 川越の魅力は・・・・

舟橋 私は川越の出身ではなく,他所者として川越に移り住んで40年以上になるのですが,川越の良さを客観的に見ることができて良かったと思います。慣れてしまうと町と同化してしまい新鮮味を感じなくなりますので,新しい他所者の気持ちでいる努力を絶えずしなくてはいけないと思っています。
私が生まれ育った栃木県栃木市は川越とそっくりの古い町で,川があり,山車もあります。けれども,川越の方が発展を続けています。私は川越市長ですから,色々な所から講演の依頼をされるのですが,どうしてかなと考えると,ウィークデーでも沢山の観光客が来る理由を知りたいようです。他の観光地と比べて人が集まるのはなぜか。全体の観光客が減っているにもかかわらず,正月でもこんなに多くの人が訪れる所はありません。
川越の魅力は何だろうと考えますと,東京に近いという地の利だけでなく,戦後の時代になって,あらゆるものがワーッと一斉に新しくなっていった時代でも,川越は同じような方向に進まなかったことが魅力の根源になっているのでしょうか。古い建物が戦災にも遭わなかったことや,昭和50年代までは古い建物を壊して新しくするという動きが強かったにもかかわらず,その渦に飲み込まれなかったのが結果的に良かったと思っています。
歴史と伝統が息づいていますので,今度はそれを活用して新しい観光都市にしようということです。古いものを壊す方向に進むことなく,逆に,残す方向へ行ったのが良かった。住民の皆さんがまちづくりに関心を示し,皆で協力しようという気持ちになることが必要ですね。町は古ければ良いというわけではありません。古くても誰も来なければ意味がないわけですから。川越は地理的にも歴史的にもちょうど良かったのではないかと思います。私自身,古い町に興味があって全国各地の町を訪ねているのですが,古いことだけを強調している町は,その古さを維持しているうちに町が壊れてしまうのではないかと思うことがあります。町の実力というか,一本筋の通った魅力が必要ですから,川越のまちづくりは,古い中にも新しい時代が息づく魅力的なものを加えていきたいと思っています。
川越を訪れる観光客数は年間400万人という基礎的な数字があるのですが,今年の正月の三が日だけで38万人になり,昨年より10万人ほど増えています。ほぼ1割の増加です。この時期ですので,観光客が増えなくても減らなければいいというのが他の観光都市ですから,「どうして川越市には人が集まるのかを話してくれ」と講演会の講師を頼まれます。
古さと伝統の中に息づく新しさが入ってきていることが魅力なのかなと感じています。川越の古い町並みは一番街の蔵造りと大正浪漫夢通りにありますが,市民と観光客の需要からするとクレアモールのように人がたくさん集まる近代的な要素も必要ではないかと思います。古いものと新しいものがミックスしているのが川越の特徴ではないでしょうか。
単に古いものを保存しているだけで,残っているのはお年寄りばかりで,お土産だけを売っているというような町ではありません。これらをいかに維持して生かしていくかが今後の課題です。古い伝統と歴史の中に,ある意味での近代的な力強さが入ってきており,それを川越の住民の方々の手で支えていただいており,大変にありがたく思っています。住民の方々によって,川越をPRしていただいているのですが,私も市長として街のサンドイッチマンのような活動をしなくてはいけないと思っています。歴史に頼るのはいいのですが,他には何もないというのはいけない。観光客が絶えず目を向けてくれるものを持つ必要があり,今後も努力をしていかなくてはと思っています。
西澤 ありがとうございました。
川越駅を降りると目の前にクレアモールという近代的な商店街があって,そこを抜けると大正浪漫夢通り,更にしばらく歩くと蔵造りの街に入る。駅から遠ざかるにつれて平成・昭和・大正・明治・江戸へと順々に少しずつタイムスリップし,また,駅に近づくに従って現実の世界へ目覚めていくところが心地よいと観光客が言ってました。また,川越の町そのものが巨大な美術館・博物館みたいだとも・・・・。
(2) 観光都市「川越」を支える歴史・文化遺産と市民活動
西澤 観光都市「川越」をここまで再生するには,住民の方々の力添えとご苦労があったと思いますが,その辺の経緯を馬場さんからまとめてお話いただけますか。

馬場 川越が重要伝統的建造物群保存地区(伝建)の指定を受けたのは平成11(1999)年で,遅すぎるというご意見を頂くのですが,それには理由があるのです。伝統的建造物のある全国の多くの地域は,伝建に頼らないと活性化できないとか暮らしていけないというところが殆どです。昭和50(1975)年の文化財保護法の改正で伝建の制度が定められたとき,川越は直ぐ候補にあがったのですが,住民の意向や伝建制度がまだ充実していないということもあり,補助してもらわずに市と住民とで何とかやっていこうということになりました。妙な制度に縛られるのは嫌だというのが多分にあったのです。ですから,伝建の指定を受けようと思えばいつでもできるような状態でした。
川越の都市計画は,江戸時代の寛永15(1638)年の大火の後に,松平さん(川越城主の松平伊豆守信綱)の命により「十ヵ町四門前」をキーワードにして作られたものです。ですから,川越には神社仏閣が多く,子供が遊ぶ所とか,憩いの場所が沢山あります。かつては,これらの神社仏閣が環境の良い空間を提供していたのだと思います。当時の神社仏閣は冠婚葬祭だけでなく,日常の地域住民の触れあいの場としての機能も持っており,現在とは考え方が違いました。宗教とは一線を画したところで,神社仏閣にこれからも住民に憩いの場を提供してもらうには,伝統的行事という形で住民との関わりを強めていくのがよいと思います。上手くいけば,これらの神社仏閣が外国のビオトープとは異なったタイプの,好ましい都市環境空間になるのではないかという気がします。
川越の蔵造りがどのような経緯を経て今でも残存することになったかを知るのは興味深いと思います。かつての川越の町は,「札の辻」を中心にして形成されていました。鉄道が敷設された時に,町の近くに駅を作ると疫病が流行るとか稲が燃えるとか言って,中心市街地から離れた今の場所に川越駅が作られました。ところが駅ができてから,町の中心がだんだんと駅の方へ移ってしまいます。これまでの一等地が時代とともに変わってしまったのです。通常なら,古いものを壊してそこに新しいものを作るのですが,川越の場合はそれを残したまま次の所へ中心地が移動していきました。このような形で,江戸・明治時代のものが一番街に残され,大正浪漫夢通りには大正時代のものが残されました。そして,昭和から平成のものが駅の前にある(図−4)。ですから,残したというよりは,たまたま残ってしまったというのが実情です。
図−4 川越散歩マップ
川越散歩マップ
一番街の江戸・明治時代,大正浪漫夢通りの大正時代,クレアモールの昭和・平成時代を経て駅にたどり着く (『小江戸ものがたり』より 提供:川越むかし工房) |
昭和20年代・30年代(1950〜1960年頃)には蔵を壊してモダンなお店を作った所もありますが,「何も無理して改築しなくても・・・・。多少の蓄えがあるので食べるには困らないから・・・・」ということでじっとしていたり,「跡継ぎが未だ決まっていないから」というような理由でそのまま残ってしまった。その結果が1周遅れのトップランナーと言うか,時代の流れに取り残されたはずが,時代の変化で良い町になってしまったと言えるのではないかと思います。確かに昭和40年代(1960〜1970年頃)にまちづくりを青年会議所で始めた時は,文化財の蔵の調査などをしていても,地元の人は殆どお見えにならなかった。そういった状態が長く続きましたね。
ところが,昭和40年代半ばごろ(1970〜1980年頃)からまちづくりという言葉が出てきて,東京の建築・都市計画の学生たちが,一番近いということで川越の町の勉強に来たりしていました。それから30〜40年経って,その学生達が大学教授になったり,建設コンサルのトップになったりして,あちこちで川越のことを宣伝してくれるのです。まちづくりを長くやっていた効力でしょうか,行政も早くから文化財に指定したり,条例を作ったり,補助金を出してくれたのです。専門家が集まってまちづくりシンポジウムを開くと,若い頃に川越に来て勉強した人達が多いので,自然に川越の話が出てくる。
まちづくりも,継続は力なりです。色んな方の応援があってここまでこられたのは,長くこつこつとやってきたからかなと思っています。行政が法律で縛られて出来ない事があっても,その部分を,行政側の情報収集・提供という支援を得て,いい意味で民間と行政とが連携しながら実行できることが多い。言ってみれば,産官学民連携によるまちづくりの走りのようなものです。
西澤 現在NPO法人になっている「川越蔵の会」を作り,蔵造りの保存・修復や,古い蔵の街と新しい街のミックスなどをしてこられたのですが,その辺のご苦労についてはいかがでしょう。
馬場 保存してきたというのは半分当たっていて,半分違うと思います。先程お話したように,半分は残ってしまったというのが正しいと思います。確かに行政の力を借りて条例や補助金等で守ってきました。それに加え,「川越蔵の会」等に所属している蔵の好きな人が楽しみながらやってきたというところがありました。当時は,川越が今のような姿になることなど想像もできませんでした。蔵の好きな人達が,「何とかしよう。先のことよりも今動こう」という気持ちだけで勝手にやっているうちに,それが時流に乗ってうまくいったというところもあると思います。
これからの社会情勢の変化でどうなっていくのか不安もありますが,川越らしさを失うことの無いように住民と行政が一緒になって守っていこうと思います。一番街にある現・埼玉りそな銀行の建物が建ったのは大正7(1918)年です。蔵造りの街の中に突然建った近代的な建物は,当時は非常に違和感があったはずです。しかし今では殆んど周囲と同化して,川越のシンボル的なものになっています。常に新しいものにチャレンジしながら,それを受け入れていった結果,川越の町の中に,江戸・明治・大正・昭和・平成のものがバランスよく混ざったのが面白いと思います。
西澤 どうもありがとうございます。市長さんにお伺いしたいのですが,今は不景気で全国の多くの商店街がシャッター通りになっています。ところが川越には,数多くの観光客に来ていただいているため,シャッター通りをほとんど見かけません。これについては,どのような評価をされていますでしょうか。
舟橋 世界的にみても市街地の周辺に大型店ができて,中心市街地が衰える傾向があるようです。でも,川越の場合には新しい店が出店しています。これは大したものだと思います。私ども行政が空き店舗の活用に力を入れなくてはいけないのですが,行政でやれることには限界があるため,商売をされている方の力におすがりしています。他の商店街と比べて川越に空き店舗が少ないのは,川越で新しいことをやろうという人は新機軸で始められますから,皆が目を見張るような洗練された新しい店ができ,客を呼べるのだと思います。川越には,そういった新しいものをとり入れる気質と包容力があるので助かっています。沢山のお客さんに来ていただいている今のうちに,新たにゼロベースの視点に立って,次の川越のことを考えないといけないと思っています。行政の力だけでは充分な行動がとれませんから,皆さんのような方々の支援と協力を今後ともお願いしたいと思います。
(3) 伝統の啓蒙・普及も大きな原動力
西澤 藤井さんは東京からこちらへ住まいを移されたと聞いてますが,その辺りのことを,川越のよさを交えて話していただけますか。

藤井 11年程前に川越に住まいを移したのですが,その前は東京浅草に住んでいました。バブル期の頃に,10年間ほど外国の航空会社で乗務員をしていたことがあり,東京とロンドンを1週間毎に往復していました。当時は,東京を1週間留守にしている間に町並みが変わってしまうほどでした。ロンドンでは曾祖父さんが見ていた景色を曾孫も見ているというように時間の連続性・共通性があるのに,東京では好きな建物が壊され,全くそれまでとはつながりのないものができている。時間のつながりを断ち切るような景観にいつも違和感をもっていました。
その頃,観光で川越を訪れて,一番街に蔵造りの建物が群で残っているのにびっくりし,そこに流れている江戸からの時間のつながりに魅せられて,川越に引っ越してきました。ですから,私は「景観難民で川越に避難してきた」と言ってます。たまたま引っ越してきたところが高齢化の進む町内で,子ども会の人数が16人で老人会が60人でした。この町内には江戸時代から続く川越まつりの山車があるのですが,浅草の御神輿と違って,山車には子供からお年寄りまで役割があるものですから,子育て中の新しい住民を暖かく迎えていただきました。お祭りが一つの装置になって,私のような新しい住人を迎え入れるという仕組みがあることは,川越の大きな財産だと思います。
川越に移り,町内のご隠居さんから聞いた中に,消え去ってしまいそうな話が沢山あったので,それを今のうちに記録しておきたいと思いまして,ミニコミ誌『小江戸ものがたり』を発行させていただきました。第1号には,日本画の伊藤深水画伯のモデルにもなった馬場さんのお母さまのて手こ古まい舞姿の写真を貸していただきました。川越の町の方々のご協賛を頂き,年に2回の発行で,最近,第5号を出させていただきました。初めにお話のあった旧川越織物市場は,たまたま私の住んでいるマンションの真裏にある古い長屋なのですが,引っ越してきた時から何だろうとずっと思っていました。ある日,博物館に行きましたら,そこに飾ってある模型が我が家の裏の建物と全く同じなのにびっくりしました。同じマンションに住む友人も単なる古い長屋としか思っていなかったので,自分達の住んでいる所にはかつて織物市場のような華やかなものがあった,ということを
新しい住民に知ってもらいたいということも,ミニコミ誌発行の動機の一つになっています。
(4) 海外からの観光客
西澤 藤井さんは,最近,英字新聞に川越を紹介されたそうですが・・・・。
藤井 お恥ずかしいのですが,お持ちいたしました。
舟橋 日本が海外の観光客を呼び寄せる力は,やはり弱いでしょう? 素材は充分にあるのだから,国内で自己満足しているだけでなく,川越を国際的にも知られるところまで持っていく必要があると思います。けれども,あまり有名になりすぎると,これもまた大変かな・・・・。
藤井 週末には外国人の方が心なしか多かったように思いました。ただ,その人達はバスに乗って大人数で観光に来るのではなく,個々人の観光になってきていると思うのです。観光客をマス集団で扱う時代は終わっていると思います。ひとりで歩いて路地裏に迷い込んだり,そういう自分だけの観光を通して自分を発見できるような・・・・。
西澤 わが国は「観光立国宣言」を唱え,海外からの来訪者を平成22(2010)年に倍増させることを目標としていますが,市長の立場から,これについてお話いただけますか。
舟橋 川越の姉妹都市がフランスにあるのですが,そこの方が川越にこられたとき,「極東へ来たのは初めてです」とおっしゃっていました。川越どころか日本へも来たことがない状態なので,日本の実情が殆ど知られていない。フランスの地理の教科書には,明治時代の農家の写真が載っているのですが,それが日本の姿であると思われているのは本当なのです。その程度の理解しかないですから,国際的な地位の向上のためには,もっと積極的に日本を紹介して理解してもらい,交際する必要があります。
(5) まちづくりに最新の測量技術が貢献
西澤 JRの山手線に乗ると,電車のディスプレイに伊香保・日光・川越の天気予報が出るのですが,川越も観光地として認知されたかなと思い,誇らしい気持ちになります。川越には蔵造りが元々あり,それを観光客が魅力と感じてくれたのが成功要因なのでしょう。そのような魅力の素になった江戸の頃の川越の町はどんなだったか大変に興味のあるところです。江戸時代の川越の街景観をシミュレーションする研究をされている近津先生から,今の川越の魅力の源泉になっている街景観について,測量技術を駆使して作成された動画像を拝見しながらお話を伺いたいと思います。

近津 私が研究のテーマにしているのはデジタル写真測量という分野で,画像を使って形状などを測り,それをコンピュータ上に再現して3D表現することをやっています。人間工学・スポーツ科学など,色々なところでこういった技術が期待されています。
例えば,被災地の災害状況の把握には空中写真が使われているのですが,写真判読だけだとどうしても人間の認知能力に限界があります。空中写真に高さ情報を加えて三次元的に観察できるようにすると被災情報の検出率が上がるという研究を行っています。また,都市空間のモデリングは,政府が進めている都市再生に関連した研究ですが,ヘリコプタから撮った動画像を使って建物の三次元モデルを作ったりしています。最近は,レーザースキャナというシステムを用いて,遺跡・建造物・地形の三次元計測を迅速に,かつ,精密に行うことができるようになったので,簡単に地形モデルや都市空間モデルを作る手法なども研究しています。
これは,デジタルカメラで撮った川越の映像を三次元表現したものです。現在ある3階建ての家を2階建てにすると景観上どのような変化が起こるかを調べてみたのですが,景観には顕著な変化が認められませんでした(図−5)。
現在の町並み 建物を2階建てに変更
図−5
3階建ての家を2階建てに変えた場合の景観の変化
−3次元シミュレーション画像−
(提供:東京電機大学 近津研究室)
昔は,町のあちこちから「時の鐘」(図−6)が見えたのですが,今は見えなくなっています。家の看板を少し変えてみたらどうなるかなど,色々とシミュレーションしてみるのですが,景観的にはそれほど変わらないのです。町並みを少し変えても歴史的な雰囲気がしないのはどうしてなのでしょうか。
図−6 時の鐘
時の鐘
城下に時を告げる時計台で,約400年前に,当時の川越藩主・酒井忠勝によって設けられたといわれる。現在のものは,明治26(1893)年の川越大火の翌年に再建されたもので,鐘は13代目,鐘楼は5代目にあたる。平成8(1996)年環境庁(現環境省)の「残したい日本の音風景百選」に選ばれた。
(参考: 『小江戸川越・情報誌 みるく』,「時の鐘ものがたり」小泉功・青木一好著) |
これは,今日の午前中に撮った一番街ですが,ものすごい数の車が走っています(図−7)。とても安心して歩けるような状態でないばかりか,車が街の景観を損ねているのではないか気になります。
図−7 走行車輌で混雑する一番街(蔵造り)
(平成16年2月23日11時30分頃撮影。提供:東京電機大学 近津研究室)
そこで,電柱を取り去って,道路の舗装を変え,センターラインを取り去ってみると,がらっと雰囲気が変わりました(図−8)。空間的にも広く感じます。
図−8(1) 江戸時代後期の景観シミュレーション
−江戸への物資の供給基地として、有力大名のもとで「小江戸」として繁栄−
図−8(2) 現在の町並みを再現した景観シミュレーション
図−8(3) 道路の舗装を石畳に変更し
センターラインを消した場合の景観シミュレーション
車道を歩行者天国にするとよいのですが,そこで生活している人たちの車まで規制しなくてもいいと思います。例えば,世界遺産に指定されているスイスのベルンの町にも沢山の車が走っていますが道路にはセンターラインがありません。また,スイスのシュタイアンブラインという町の一般道も車が走るのですが,ここにもセンターラインがありません。危険な感じがせず,むしろ安全な雰囲気がするほどです。ツェルマットの町では,美しい町並みを作るために電気自動車しか走らせないようにしたり,各家が花を出したりしています。世界文化遺産のザンクトガレンでも,花を置いて町並みをきれいにしています。また,チューリッヒは川越と同じような人口の町で,ショッピングモールになっているのですが,このモールの一つ道をはずれた所に遊びの空間があり,ゆっくり休むことができます。
東京の一人当たりの公園の面積は3u/人で,同じような地域面積のロンドン市街に比べてかなり少ない。これは都市インフラの問題になるのですが,電線地中化や都市公園の整備は,日本がかなり遅れている。川越には1日500円で乗り放題のバスができて観光し易くなったのですが,GISなどを使って,観光スポットを上手く結んで観光をライン化し,さらには,エリアを作っていくことが大切だと思います。

西澤 ありがとうございました。近津先生から古い川越と今の川越,世界の観光都市の例などを挙げていただき,測量設計という視点から川越をどのようにすればよいのかというご提言をいただきました。
最近,一番街の蔵造りの周辺にはマンション等,かなり場違いな構造物が目につきますが,何か対策はお考えですか。
馬場 平成元(1989)年に景観形成条例というのをつくりましたが,地区指定がなされておらず効力を発揮できませんでした。それではいけないということで,平成11(1999)年に一番街が伝建の指定を受けました。それを踏まえて,その周りの景観形成地区の指定をしないといけないと考えています。高さ制限も「時の鐘」の建物の高さ16メートルを超えないようにしようという意見が出され,地元で説明会を開いたり,都市景観審議会にも提出されていますので,今年8月には景観条例にもとづいて地区指定が行われる予定です。
2. さらなる観光都市「川越」をめざして − 観光インフラ整備 −
(1)複合型・ネットワーク型の観光をめざして
馬場 発展途上国だけでなくアメリカのような先進国でも観光関連が,かなり重要な産業になっていますよね。従来型の風光明媚な観光を楽しむというよりは,ビジネスや会合で来た時に,趣味の音楽や美術の鑑賞とか美味しい食べ物を楽しむなど,視・聴・味の感性に訴えるような都市型の観光がこれから必要になるように思います。また一方では,建物の景観が非常に重要になってくると思いますね。
藤井 もっと「体験」できるようなものがあればいいのになと思います。菓子屋横丁(図−9)は,大人にとっては幼い頃のノスタルジーを感じ,また,子供にとっては初めて経験するお菓子の王国なのです。こんな,色んな世代の人が一緒に遊べる空間が楽しいですね。
図−9 菓子屋横丁
菓子屋横丁
明治の初めから菓子を製造していたが,関東大震災時に東京に代わって駄菓子を製造供給するようになり,昭和初期には70余軒があった。今でも10数件が下町風の駄菓子類を製造販売している。横丁の雰囲気が郷愁を誘う。ハッカ飴や焼き団子などの菓子の香りが,平成13(2001)年環境省の「かおり風景百選」に選ばれた。
(参考:http://www.city.kawagoe.saitama.jp/kanko/kawa14.htm) |
馬場 そうですね。色んな人がおり,しかも,それぞれの人が多趣味で,楽しみ方が多様化しているので,食べるのが好きな人・音楽が好きな人・美術が好きな人のそれぞれに合った体験ができる色んな仕掛けがないと複合的な都市として発展していかないと思います。川越には特別に風光明媚なところが無いですから。
西澤 川越にも博物館や美術館はあるけど,充分なのですか
馬場 沢山ありますが,充分とは言えません。美術館や博物館は,バブルの頃に行政が作った大きなハコモノよりも,町の中に特色のある美術館や博物館があって,自分の好きな作家の作品を見て回るのが主流になっているのではないでしょうか。ですから,川越には橋本雅邦の作品を持っている山崎美術館や船津蘭山の作品がある蘭山美術館のように,個性的なミニ美術館やミニ博物館をあちこちに作るのがよいのではないかという気がします。
西澤 川越にはJRの川越駅,西武線の本川越駅,東武東上線の川越市駅,中心街でないところの駅もいれると市内に9つも駅があります。以前に3線合同といって,JR・西武・東武の3つの駅を一箇所に統合しようという案が出されたことがあったのですが,一箇所に集めるのではなく,それぞれの駅がそれぞれの役目を担うことによって都市機能をうまく発達させればもっといい町になるのではないかと思いますが・・・・。
馬場 3線合同の駅を作るのが目標だった時期がありましたが,それができなかった。でも,無理やり本川越・川越市駅・川越駅を一つに小さくまとめなかった結果,これらの3つの駅が形づくる三角形の周辺に色々なゾーンが生まれることになった。この三角形を面として開発すると面白い展開ができるかもしれません。ひょっとしたら,夢と希望に溢れるトライアングルゾーンになるかも・・・・。
具体的には,川越駅の西口開発を進める時に他の2駅との連携をとるようにしようという都市構想が出来ているのですが,市町村合併問題も絡んできて,地域ふれあいセンターをどうするとか,地元との話し合いとか,予算がないからPFIなどを使いながらとか,かなり広域の問題として取り扱うことになり,県の意向が強く反映されることもあって,実現できるかどうか分からない状況です。
西澤 川越単独ではなくて,地域の特徴のあるところとの組み合わせを考えるというのも大事でしょうね。
馬場 秩父,所沢,越生の梅林,遠くでは伊香保の温泉地など,広がりを持ったなかで川越を演出することが必要だと思いますね。川越は元々,江戸時代に権勢を振るった喜多院の天海僧正が,江戸に運ぶ物産を集中させる場所として選んだことに始まります。戦になると直ぐに押さえられる甲州街道・中山道などの主要街道から外れた場所というのが選定条件でした。ですから,川越の道路は戦略上,外に向かって放射状に延びており,物資とともに人も一緒に移動したので古くから栄えていました。当時から,周辺地域の人々は川越に来ることを一つのイベントとして考えていましたので,この放射状の道路網を生かして,川越を拠点にしてあちこちを観光したり,周辺の観光のついでに,川越へ立ち寄ってもらえるような仕掛けが作れるとよいと思います。
(2)暮らしぶりの光を観てもらう
西澤 平成11(1999)年頃に,観光客や地元の人に行ったアンケートでは,川越を訪れる人の男女比率は4:6で女性が多く,県外と県内の人数比は半々ぐらい,県外の人のうち東京都内の人が約半分,年代別では50〜60代が全体の約半分を占めています。最近は,修学旅行の疑似体験を川越でさせるという中学校が多くなっているので,若い観光客が増えています。このような観光客層を踏まえて,川越の観光開発についてのご意見をお願いします。
近津 私は10年前まで川越に住んでいて,まだ本籍も川越にあるのですが,一般的なことしか知りませんでした。そんな調子ですから,観光客が川越に来る前にどういうイメージをもっていて,来た後にどのようなイメージに変わるかというフォローアップが大切だと思います。
研究室の学生に白川郷の研究をさせているのですが,「秘境の歴史的な町」というイメージや「合掌造りの観光地」というイメージがあります。観光客は合掌造りが沢山あると思っているのですが,来てみると合掌造りだけでなく,普通の民家も沢山あるというギャップがある。生活する人にとっては合掌造りの家でなくてもよいわけですから,住民との話し合いを通して,どのような町のイメージを目指すかというのが一番重要で難しいのではないでしょうか。
馬場 私たちが他の土地へ観光に行ったとき,あまりにも観光化されたところは倦厭したくなります。自分たちの生活の場を暮らし易い環境にすることをきちんとした上で,それを他の土地の人達に観ていただくというのが本当の意味での観光ではないでしょうか。川越にテーマパークを作る訳ではありませんから,川越の魅力,つまり,その土地の「光を観る」というのが多分観光だと思います。
西澤 藤井さんは今のお話についてどうですか。
藤井 そこに住んでいる人が楽しく暮らしている様子を見て,観光に来られた人も,こういう暮らしがいいな,と思ってくれるような町がいいですね。自分が他の観光地へ行った時に,観光客しか入っていない店には入りたいとは思いません。地元の人が自分の町が好きで,その暮らしぶりをどうぞ観てくださいといえる町になればいいなと思います。消費のためだけの観光地になって,1度行ったからもういいわ,という場所にはなって欲しくないと思います。川越は普段着のきものが似合う町,タイムスリップできる町だと思います。
(3)伝統文化の保存と継承を大切にして
西澤 私が思うに,「日本の古都」番付が,京都,奈良,鎌倉,次に川越が出てくればいいなと思っています。そういう位置付けの観光都市にするために,どのようにすればよいでしょうか。
馬場 昭和の頃の古い建造物を文化的な価値としてどう評価するかが大切で,それらをまちづくりにどう生かすかということでしょうか。川越の町は,天災や経済問題・跡継ぎの問題・行政の都市計画の線引き問題など,色々な障害を潜り抜けて百年〜二百年も残ってきたのですから,その意義をどうとらえるかということです。町の良いところを残して,これからのまちづくりにどうつなげるかということをきちっと考えないといけない。あれだけのものを今後も何百年も残すというのは,その家だけでは無理で,跡継ぎがいなかったり,経済的に破綻したら駄目になります。色んな前提があって残っているのだ,ということをきちっと提唱していくことが次のまちづくりの基本で,それが観光につながっていくかなという気がしています。
六本木ヒルズや汐留などの新しい都市再開発がクローズアップされていますが,川越はそれとは正反対に,古いものの再開発で対抗できるのではないかと思います。古い材料には事欠かないので,そこに新しいものをミックスして,人の魂に訴えかけるような町にすれば,六本木ヒルズには負けません。
西澤 観光客一人あたりの消費額が3000円〜4000円と言われていますので,年間400万人の観光客の消費額合計は120億円〜160億円になるのですが,地域の商店の方々はどのように感じておられるでしょうか。馬場さんは川越商工会議所の副会頭でもあるのですが,その辺りのことをお聞かせください。
馬場 はっきり申し上げれば,商店街の人はそれほど恩恵を感じていないと思います。なんだかんだ言いながら,実は産業ありき・商売ありきではなく,まず最初にそこでの生活があり,次に趣味などの文化が生まれ,その次に色々なものを売ったり買ったりすることで経済効果が生まれてくるものだと思います。川越の場合には未だそこまで行かず,どのように楽しく暮らすか,どんな文化が育つかということをきちっとやった上でないと経済効果が出てこないと思います。そういう面からいうと,経済効果が知らず知らずのうちに増えていくという方がいいのではないでしょうか。
以前のまちづくりは,市民と専門家と行政の手で行われていましたが,今はそこに企業が入ってこないときちんとしたまちづくりが出来なくなっています。今の企業はある程度の利潤を求めながら,地域の活性化に対してどう社会的責任を果たすかというのが大事になっていますから,経済効果だけを追求するのではなく,住まい・環境・健康・福祉を含めた快適さと魅力と活力を考えないといけない気がします。
(4)川越のブランドを活かして
西澤 観光客が魅力に感じるものには「川越のブランド」があると思うのですが,どんなものを思い浮かべますか。
藤井 今日,私が着ている「川越唐桟(かわごえとうさん)」という着物は,幕末から明治にかけて,江戸っ子の間でもてはやされたものです。庶民は絹を着られない時代に,木綿の織物で絹のような光沢があり,川越商人が歌舞伎の台詞の中でも宣伝させたものです。川越織物市場は,周辺からの織物の集積場所だったのです。私はかつての日本人の,普段着の着物文化を残していきたいと思っていますので,川越が普段着の着物を着て歩くのにふさわしい町ですよ,ということを発信したいと思っています。その結果,川越唐桟や普段着の着物を身に
付ける人が増えればいいなと思います。食べ物にこだわると,「お芋」ということになりますが・・・・。それよりも,東京から無くなった懐かしい暮らしぶりや,懐かしい物が似合う町であることをもっとPRしてもいいかなと思います。
西澤 ブランドにこだわると,「蔵造り」とか「小江戸」という名称は,商標登録してあるのですか。測量業界の一部で特許問題が騒がれているのですが,「阪神優勝」を商標にして阪神球団が困ったように,「小江戸」という名称を近隣の「小江戸」と名乗っている都市に盗られる心配はないのかと私は思っているのですが・・・・。
馬場 お酒の商標で「小江戸」というのがあったと思いますが,町自体をしめす「小江戸」という商標登録はしていないですね。平成11(1999)年に通商産業省関連のGマーク(グッドデザインマーク)は本当は品物につけるマークらしいですが,全国で初めて町並みとしてのグッドデザイン賞をいただきました。これも一つのブランドかなと思います。商標ではないが,その意義は大きいです。
また,「小江戸」を名乗っている川越,栃木,佐原が手を組んで,小京都連合会に似たものを作り,小江戸サミットも開いています。他の町にも参加を求めているのですが,なかなか参加してくれないのが現状で,小京都が全国版のネームバリューなのに対し,小江戸は関東だけの狭い分野なのかも知れません。また,蔵造りの町は全国にあるのですが,専門家の目から見ると,蔵にも独特の建築デザインがあって,地域ごとに全部違うようです。
随分前になりますが,川越独自の商品の商標登録を作っていこうという動きがありました。色々な商品が「小江戸」という名称を付けていたので,商工会議所で画一化していこうという話にはなったのですが,どうも画一化というのは川越の風土に合わないみたいです。個々の商店がなんとなく好き勝手にやっていくことで川越の雰囲気が出ているようで,やっぱり商人の町なのですね。他の城下町ですと権力を持った武士階級による系列がきちんとあったのですが,川越の場合には藩主が次々と変わっており,明治維新の時も藩主が変わったばかりでしたので,武士階級の力よりも商人の力が強かったようです。そのような商人気質を根強く持っており,100年以上も商家を営んでいる店が100店以上あり,そ
れらは,それぞれうまくやっているので,まとめていくのはなかなか難しいところがあります。
西澤 地方の観光地には必ずといってよいほど,地元の自慢の酒・ビール・ワイン等があります。川越にあった古い造り酒屋さんが,最近,廃業されましたが,酒類のブランドはいかがですか。
馬場 元々,川越には数件の酒造会社があったのですが,今は川越独自の酒がなくなってしまいました。最近廃業された鏡山酒造の跡地が約1000坪あり,明治・大正・昭和の時代に造られた大きい蔵が残っていますので,市で買っていただいて,その建物を上手に利用すれば,観光の一つの目玉になるかと思います。ビールに関しては,芋を原料にした「小江戸ブルワリー」という地ビールがあります。美味しいか不味いかはともかくとして・・・・。
(5)観光情報の発信が何よりも大切
西澤 川越を訪れた人から,観光ガイドブックの標識が統一性に欠けるのではないかという意見を聞いたことがあります。また,観光地図に距離表示が無いものがあり,どれぐらい歩くと蔵造りの一番街に辿り着くのか分かりづらいという意見も出ています。川越城本丸御殿でバスが来るのを15分待っていたが,一番街まで歩いても7分ほどの距離でしかなかったという話しも聞こえてきます。ですから,駅や要所要所にインターネットに繋がったディスプレイを置き,観光客が操作できるといいのではないかということですが・・・・。
馬場 地図は,いいものがいっぱいあります。商店街が独自に作っているものもあります。地元の人が行きたい店のマップや,町会のマップなど色々な種類のものがあるのですが,機能していないようです。
近津 川越にある江戸・明治・大正・昭和のそれぞれの時代の建物情報を一括して見られるように,これらの建物の三次元画像をデジタル地図の上に貼り付けたCDを作ると,観光客にも喜ばれると思いますよ。
西澤 川越の観光客が多いのは,川越のPRがかなり行き届いているからだと思うのですが,どのようなPRをされていますか。
馬場 先程お話したように,蔵造りは自分達がPRしなくても,建築の先生や専門家がPRしてくれているのです。また,川越では年中,何かの行事をやっていますよね。警察の方も驚いていますよ,警備が大変だと。例えば1月には,初詣の氷川神社,3日からは初大師があって30万人以上の観光客が訪れます。2月には3日の節分,3月は春まつりといったように年中行事が続きます。人を呼び寄せる仕掛けづくりを欠かさないようにしています。
また,市長さんの発案なのですが,「去年は江戸開府400年だけど,今年は家光ここにあり」ということで,「家光公生誕400年」で川越をPRしようということになりました。喜多院のご協力で,今,座談会のために使わせてもらっている部屋の上段の間(国指定重要文化財)は江戸城から移築したものですが,3代将軍徳川家光公がお生まれになった部屋です(図−1)。今後も行政と住民が協力して,常に新しいイベントを仕掛けていこうとしています。これが出来るのも,川越にはイベントを企画できる題材が豊富にあるからなのでしょう。
西澤 馬場さんがおっしゃるセレモニーやイベントの仕掛け作りの上手さは川越の商人の知恵だと思いますね。
(6)そのために解決しなければならない課題も・・・・
近津 川越で一番気になるのは一番街を走る車です。小さな子供と手をつないで歩ける街ではないです。せめて,あの一帯だけでも交通規制するとよいと思うのですが,出来ないのには何か理由があるのですか。
馬場 大正浪漫夢通りをどのような商店街にするかを検討する大正浪漫委員会を作ったのですが,委員会の意見は,車を通さない方がいいというのが圧倒的でした。車のシャットアウトが無理なら,せめて土日だけでもシャットアウトもしくは一方通行にすべきというのが8割以上を占めました。ところが,いざ実行に移そうという段階で商店主が関わるようになってから,交通規制の計画は宙に浮いてしまいました。一番街でも同じですが,車の走行が危険なのは分かっていながら,なかなか実施に移せないのです。
一つの契機として,平成17(2005)年に一番街の通りを部分的なモールにして,一方通行かシャットアウトしようという意見があるのですが,商店主はなかなか「うん」と言ってくれないのではないかという気がします。交通事故が起きたら,警察や行政の指導で一方通行になる見込みもあると思いますが,事が起きてからでは遅いですよね。商店街の立場から言えば,現在は車社会ですから郊外の大型店にどんどん客をもっていかれてしまうので,中心市街地の商店が生き残るには,車で来て色々な店で買い物ができるようにしてほしいということです。
でも,これからの商店街の活性化には,車をシャットアウトして歩いてあちこちの店で買い物が出来るようにしたほうが,個々の商店の努力で商いができてよいと思うのですが,そのことが未だ理解されないのです。今のままでも,まあまあの商売が成り立っているから,交通規制の商売上のプラス面を分かってもらえない。商売が傾いてから立て直すのは非常に大変ですから,今のうちにそれをどう理解してもらうかというのが大変に難しいですね。
商店主も世代交代が進んだ結果,今から20年前の非常に悲惨な状態だった頃の事が忘れ去られている。電線が地中化され街が美しくなったので,危機感が殆ど感じられない。もっとも,今の状態をクリアすることに精一杯で,先のことを見ていないというところも感じます。それと,もう一つ忘れてはいけないのが,川越は元々交通の要衝地であったことで,その機能を維持しながら交通問題を解決していかなければいけないという難しさがあります。
藤井 川越で人力車が始まりましたが,安心して乗れるような対策が必要でしょう。観光客だけでなく,エコロジータクシーとして地元のお年寄りの買い物の足代わりなど,人力車を上手く活用すれば,車社会とも合理的に付き合っていけるように思うのですが,どうでしょうか。
近津 川越から八方へ放射状に道路が延びていますので,一般車両の進入禁止など何らかの交通規制をするためには,適切な箇所に複数の駐車場を設置する必要があります。どこに駐車場を設けるかという場所の選定は非常に重要で,交通量や観光客の数や年齢構成,観光スポットの位置など様々な空間データや統計データを使って,GISのようなシステムを駆使して空間解析する必要があります。また,駐車場の空き情報を運転中のドライバーに知らせたり,道案内するGIS機能を備えたシステムも必要になる。測量やGISの分野の活躍の場が,観光産業の中にも沢山あるように思います。
3. 期待される測量業と測量業再生のヒント
西澤 私ども測量業界は,公共事業の減少,価格競争の激化,原価の悪化など厳しい経営環境の中で,何とか生き抜いていこうとしています。川越のまちづくりに関連して,測量業界・測量技術者に対する激励の言葉をいただきたいと思います。
舟橋 先ほど近津先生から測量技術の最先端の話を聞きまして,今日は大変いい勉強になりました。私どもも測量設計の仕事を民間会社に委託して,測量図や調査報告書,計画図や設計図を作ってもらうのですが,直ぐに役立たなくなって,また,作り直すということを繰り返しています。多少の時間変化にも対応できて有効活用できるような成果の作成を測量設計技術者の方々にお願いしたいと思います。
また,測量というのは決められた仕様に従って単に作業するだけだと思っていたのですが,今日は,次の川越の開発計画の指針となるような画像を見せていただき,測量界の技術レベルの高さを初めて理解しました。これからも新しい技術を用いて,より良い仕事をしていただけるよう期待しています。
西澤 市長さんは弁護士でもあるわけですが,測量士も弁護士・税理士・公認会計士と同様に,さむらい士という字のつく「さむらい士業」です。気合を入れて測量界は頑張りますからご指導をお願いします。
舟橋 私が弁護士会長をやっていた時,「士業」が集って会をつくったことがあります。一人のお客が仕事の内容によって頼む先を変えやすいように,様々な士業から成るネットワークの仕組みを考えました。これはどういうことかというと,「士業」は高度な知識を使って指導助言するサービス商売であって物を売るわけではありませんから,そのことをお客に理解してもらって,コンサルタントを有効に活用していただこうと思ったのです。測量にはこれだけの技術があるのですから,同じ「士業」の仲間として頑張ってください。
西澤 川越の生き方から,不況で苦しんでいる測量業が立ち直り,今後も発展していくための道筋のヒントを沢山授かりました。会社経営もまちづくりも,基本は同じだと認識しました。これらのヒントを,敢えて整理させていただきました。
● 焦って目先の事だけに囚われることなく,先を見通した長い目で,こつこつと地道な経営を行う姿勢が大事。継続は力。
● 時代の流れに迎合せず蔵造りを守り続けることで川越のブランドが確立されたように,プライドと自信をもって他社に無い個性技術に力を注ぎ,それをブランドに育てること。他社の追随を許さない製品やサービスであれば,売上高・収益高で負けても,立ち直りができる。自社の製品・サービスが如何に公共的に役立つかを理解して仕事をすれば,そこに根ざした企業家精神や技術者魂は,脈々と受け継がれる。「プライドでブランドを」が,これからの企業経営のキーワードの一つ。
● 市内では大正浪漫夢通り・蔵造り・喜多院などの観光スポットがネットワーク化され,郊外では秩父・所沢・越生・伊香保などのネットワークがあり,それぞれ観光資源として機能しているように,測量も,ばらばらになった孤立点の商品ではなく,ネットワークで繋がった調和のとれた線・面の製品・サービスを提供することが,経営の広がりと連続性を生む。
● 観光客の求めているものを常に意識し,川越商人が知恵を絞ってリピーターに来てもらえる色々な仕掛けを作ってきたように,測量もクライアントのニーズをいつもキャッチアップし,「士」のインテリジェンスな知恵を活用して,顧客パートナーとして繰り返し発注してもらえる仕掛けを作ること。
● 伝統的な蔵造りの町に新しい息吹が注ぎ込まれたように,伝統的な測量技術に新技術を導入して,新しい商品・サービスを提供することで顧客満足を得る。
● 蔵造りは大学の先生や建設コンサルタントが色々な場所で宣伝してくれたように,測量も良い製品・サービスを提供すれば,自分に代わって客がそのPRをしてくれる。
● 観光客を画一的なマス集団として扱う時代は終わり,自分探しの自分だけの観光が求められているように,測量も画一的な仕様の仕事は終わり,顧客毎に異なったニーズに応えていくこと。
川越の生き方を学びながら,われわれ測量業がこれからの時代をどのようにして生きていくべきか,自ら苦しみながら模索して行く事に本当の価値があるのではないでしょうか。
本日は,どうもありがとうございました。
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【 備 考 】
1)
重要伝統的建造物群保存地区(伝建)
昭和50(1975)年の文化財保護法の改正により「伝統的建造物群保存地区」の制度が定められ,国(文化庁)が特に歴史的・文化的に価値の高いと認めた集落・町並みを「重要伝統的建造物群保存地区」として選定し,市町村に対して保存事業への財政的援助等を行い,その保存整備が進められている地区である。平成14(2002)年現在,35道府県55市町村62地区 2409haが指定されている。 本文に戻る
2) 十ヵ町四門前
寛永15(1638)年の大火の後,松平信綱が行った町割り。十ヵ町地区は,現在の川越市志多町,宮下町一丁目,宮下町二丁目,喜多町,元町一丁目,元町二丁目,大手町,幸町,末広町二丁目,仲町,松江町二丁目,連雀町にあたり,ここには伝統的町屋をはじめとする歴史的な建造物が数多く残されている。
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3) 川越蔵の会
「住民が主体となった町づくり,商業の活性化による町並み保存」を目的に,住民・市民・専門家などが集まり,昭和58(1983)年に発足した。住民が主体となった町づくり,北部商店街の活性化による景観保存,町並み保存のための財団形成,の3つの目標を掲げて活動してきた。現在はNPO法人として活動している。 本文に戻る
4) PFI (Private Finance Initiative)
公共サービスの提供を民間主導で行うことで,公共施設等の設計・建設・維持管理及び運営に,民間の資金とノウハウを活用し,効率的かつ効果的な公共サービスの提供を図るという考え方である。平成11(1999)年7月にPFI法が成立し,同年9月に施行された。
平成12(2000)年3月には,PFI法に基づき「民間資金等の活用による公共施設等の整備等に関する事業の実施に関する基本方針」が公布された。 本文に戻る
5)
川越唐桟(かわごえとうさん)
唐桟は,室町時代ごろから日本に入り始めた紺地に赤や浅黄,茶,灰などを縦縞に織った輸入の綿織物。川越は江戸時代の中ごろから絹織物が盛んに作られたが,贅沢品だったため江戸に送られ,庶民には手の届かない織物であった。幕末の開港当時,横浜に出て絹織物商を営んでいた中島久平は,織り上げた唐桟を砧で打って仕上げたところ,絹のように美しくしなやかで,日本人の好みに合ったすばらしい織物が出来上がった。これが「川越唐桟」としてもてはやされ,川越で大量生産された。 (参考: 広報川越 No.886 『先人のあゆみ23』) 本文に戻る
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